概念としての神・質感としての神

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神はいるかどうか。有史以来人類が求めてやまない真実の一つで、もうどのような人でも一度は考えたことがあるのではないかと言う面白い質問だと思います。
哲学、宗教。そして科学。例えば、キリストの御身や仏陀の後光を見るように、70年代の日本ではUFOの目撃談がとても増えました。信じる者は救われるという宗教の常套句と同じように、科学を万能と信じる機運の高まった時代には、UFOを神として見たのだと思います。
話を戻しましょう。神は存在するのかどうか?わたしは、いるとかいないとかそういう話ではないのではないかと思います。個々の心の中に神はいる...というどこかで聞いたような話ではないですが、それもひとつの真実として、いると思った人にいるし、いないと思った人にはいない。「いると思った人にはいる」は当たり前の話なのですが、いないと思った人には、いないという神がいるのだと思います。つまりは「神がいない」と言うことを信じていることにより科学的であったり数字で表されたり、現実、そう言う人たちのよく言う「現実的な」という神をいるとしてしまっているわけです。
数字のゼロはとても神に似ているように思います。「数がないことを表す数字」矛盾です。数字は数があることを表すもので、それがないことを表すゼロは、概念として神様ととても似ているのではないかと思います。人類誕生から戦争も貧困も理不尽も残念ながら一切止んでいないのに、人々は神に祈ってしまうように。
わたし自身の体験談をひとつ。何かの宗教に入信しているわけでもなく、かつ家に神棚はあり、毎年家族と初詣に神社に行く。クリスマスにはどこか何かを祝いたくなる。そういう一般的な宗教観の日本人の一人だと思うのですが...(決してスピリチュアルな占い的なものや、幽霊を見ることができる的な能力があるわけではありません)
厄年を迎えて、神社に厄払いに伺った時に(信じているわけでも信じていないわけでもないので、厄払いのお布施割とかかるなあと思った覚えがあります)
神主さんの厄払いでの所作は、神様が実際に通ってくることを見せるように、空間をつかって所作をなさるのですが、その儀礼の最後に、神社の奥に見える本殿のところが、実際に質量をもっているように感じたのです。砕いて言えば、人影のような輪郭(ともいえないくらいぼんやりとしていました)が見えたというか感じたというか。道で後ろから来る車を避けるのに、視覚以外を使うように、見えていないのだけれどなにかいるような感じがする、といったぼんやりとした質感。そして、意外とその影はガタイの良い印象を持ったことを覚えています。
ある翻訳家がある本を訳そうとしばらく取り掛かっていたそうですが、ある時期に突然怖くなって、その本を視界に入れることすらできなくなった時期がある、と言う話をどこかで読んだことがあります。同じように、良く出来た音楽、真に迫った演奏を実際に見ることで、元気になること、昔からある日本の力強いお祭り。それらすべてに神が関係しているように思われます。そして神と言う概念や言葉が嫌なのであれば、エネルギーと呼べばよいのではないかと思います。
わたしが見た神社のそのエネルギーと、翻訳家のただの紙の束に抱いた畏怖と、たくさんの人が集まって熱狂している場所と、すべて一つの線でつながると思います。
結論として、様々な手垢のついた「神」という記号が、実際に存在するかしないかはどうとでもいえると思います。しかし、神と見立ててしまうような、なにかそのような力は、確実に存在しているように思います。そして、それは外の話だけではないと思います。マネキンを片足で立たせることはとても難しいですが、わたしたちには10秒そこらは簡単です。